昭和46年01月23日 朝の御理解
御神訓 一、「信心は本心の玉を磨くものぞや。」
御理解 第55節
「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。」
信心というのがどのようなものかと言う事を、この様に見事に表現してあるみ教えはないと思いますね。信心信心ちゃどう言う事ですか。信心とは本心の玉を磨くものぞ。一言にして言ってある。けれども信心をしておっても、いや何十年しておっても、本心の玉とはどんなものだろうかとも考えない。又その心を磨くものだとも思わない人が、信心しておっても、沢山あるのじゃないかと思うですね。
私は金光様の信心を、もう何年しておりますと。今日もいつも心を磨かないけんのに、心に一つもならない。けれども毎日、お参りはしておる。毎日お話も頂いておる。それで本心の玉を磨いておる。信心をしておるという様なふうに、思うておる人もあるかも知れない。そこでね私が信心によって心を磨くとか、本心の玉を磨くと言う事が、どう言う事か、又磨いていけばどう言う事になるかと言う事を、分らせて頂く方法というか、おかげを頂いて行きよるなということが分る。
御理解の中にね五十五節に信心をすれば一年一年有難うなってくると仰せられる。だから何十年信心をしておってもね、この一年一年有難うなってくるというものが、もしなかったとするならね。それは本心の玉を磨いておると言う事は言えないと言う事になるのです。信心をする信心をさせて頂いていく者は一年一年有難くなってくると。その一年一年有難くなって来る事がないとするならね、やっぱ考え直さなければいけない。自分は十分教えも頂きよる、修行もしておるようにある。
そこで信心をしておれば、一年一年有難うなって来ると言われるのに、有り難うなっていかないとするとですね。改めてここの本心の玉を磨くと言う事に、焦点を置かねばならんと言う事になります。そこでそのここに本心と言う事は、本当の心と言う事でしょうね。中々その本当の心というのが掴めないんです。本当の心のと自分で思うておるけれども、それが本当の心でなかった証拠に、まぁ例えてこういう例があります。
どうにも行き詰ってどうにも出来なかった。それをまぁお取次を頂いておかげを頂いた。そこでねそこで神様約束をさせられた。本当に自分ようなものがこの様にお引き立てを頂いて、このご恩はもう一生忘れませんと。是は私を通して神様にそういうお礼を申し上げさせて頂くと同時に、今後一生信心を怠りませんという意味のことを、いわば私に証文でも渡さんばかりの、真を表に表わしてそのお届けし、そのことを神様に約束したと思うておった。私もおかげ頂いておると思うておった。
ところが最近になって、その事をですね、まるっきり反故にしてしもうておる人もある。あれだけ言ってたあれは嘘だったかとは、言わなければならない事になった訳です。それは結局はどう言う事かと言うと、本心ではなかったと言う事なんです。本心から言いよったつじゃなかったと言う事です。いや自分はその時は本心だと思うておったけれども、自分も決してそん時は嘘じゃなかった。
本当にそう実感しておった。けれども本心からではなかったと言う事が分かる。まだちょっと手前の心であった。してみると中々本心というものは、出にくいもんだと言う事が分るですね。その事を神様にお届けさせて頂きよりましたら、私に証文を渡しよった。そしてあの実印をね、判にはこうカップにはまっとるでしょう、あのカップにはまったまま、朱肉で判を押しよるとこを頂いた。実印を押してない。
いやその実印は実印だけれども、カップを取っとらんもん。取らずにこう判を押しとる。それに尚お願いさして頂きよったらです。神様がねそれでもおかげを頂かし下さろうとする働きだと。本心を出させたいばかりだという意味の御理解を頂きました。そこから行き詰まりが出てくるかもしれん。そこから気づかして頂く事になってくるかも知れん。まぁどう言う事を持って、気づかして下さるかは知らんけれどもです。
この時出たものが本当の心だと言う事。だから神様は神に嘘を言うた。神に嘘を言うたから、もう是は相手にしないという様な事ではない事が分りますよね。もうどこまでも、所謂本当なもの、所謂本当な心を出させよう。そして本当なおかげを下さろうとする働き。そういう働きがあるわけです。神様は私共の本心を求め給う。だから私どもは本心と思うておるけれども、本心じゃない場合がある。
結局信心をさせて頂くと言う事は本心の追求と言う事。本心の追求なのです。しかもその本心の玉を磨くものである。けれどもここの所が結局信心の焦点に成る所とあってみればです。お互いが一つ本気で自分の本心というものを、出させて頂く事にならなければならない。自分が今神様にこの様に願っておる事も、果たして本心で願っておるのであろうか。これだけ本心「音声不良」おかげがないとするならばです。
これは自分の本心というのを、もうひとつ確かめてみらなければならないと言う事になり。もう何年信心させて頂いておるのに、例えば有り難くなっていかないとするならです。いうなら不平不足が多かったり、所謂有り難い心とは似ても似つかない反対の心が起こってくるとするならね、結局まだまだ本心の玉を本心を掴み得てなく、又はその本心を磨いて行くと言う事に精進、焦点を置いてない自分だと言う事になるのです。
確かにね本心が本心が出ると言う事。是は中々ね一遍じゃ出ないようです。是はまぁ私の体験からですけれども。長年の信心させて頂いておったけれどもね、矢張りその時は、本当のものの様に思っとたけれども、本心ではなかった事を気付かせて頂いた。だから信心をさせて頂けば、腹を立ててはいけないとか、不平不足を言うてはいけないと言われるから、腹を立ててはならんと思う心とか。
またははぁ信心しよって、こげんところで不平不足を言うっちゃならんと思うて、不平不足を言わんというのでは、ほんなもんじゃないと。不平不足を言わんで済む心。腹を立てんで済む心。そういう心が私は本心の玉を磨いて行くと言う事によってはっきり分かってくると思う。同時に私が感ずる事は本当な事が分かってくる。もう十何年前やったでしょうかね。毎月ご本部へ月参りをさせ頂いた。
そこにお参っておられます、中村さんですけれど、まぁだ当時は若かった。六十歳ぐらいでありなさったと思いますね。もう親先生が、ご本部参拝をされる時には、もう絶対、どんなことがあっても、お供させて頂くと。いわゆる本心から、そのことを願っておられる。その事をお取次頂いておられた。そういう時代のご本部参拝の時でした。奥城でお礼をさして頂きよります時に、中村さんのことを頂くんです。
中村さんは、中村キクヨっていう、カタカナでキクヨとあるんです。それを、私が頂くのは、喜び久しい代と頂いた。これも一つのご神格だな、中村さんがこれだけ熱心n信心をなさるから、神様がおかげをくださったな、とこう思わせて頂いた。ありがたい。それで、ご祈念終わらせて頂いてから、そのことを中村さんに申しましたら。中村さんが、まぁ、そん時の事は、ようと覚えませんけれども、本当にこの神様は生きてございますなぁ、ということでした。
実はね、私が心願に、私が心に誓わせて頂いて頂いたことはです。ちょうど今日の御本部参拝のこの日が、満願の日に当たっとります。私がずっと修行させて頂いてまいりました、その満願の日にです。神様から、そのような、ありがたい尊いことを頂いた。これからは、カタカナのキクヨではないぞ、漢字で書いた喜び久しい代、とまぁ、名乗れよというわけなんです。
昔あの例えばあの土井に、大坪ってあります。久富さんところの部落です。あそこにやっぱ私と同じ姓けれども同じ大坪だけれどもですね、大体そこに大坪っていうのがない、小坪っていうのはあるけれども、大坪っていうのはその人一軒なんだ。私もどうしてじゃろうかと思いよったら、ある時久富さんから聞かせて頂いた。この人は久留米の有馬さんの何かで、御用にまぁ働いておられたんですね昔。
ところがなかなか真面目な働き振りだからね。その殿様からね、お前はこれから小坪を大坪に名乗れよと言うて、まぁご褒美代わりに頂いた。だから土井の大坪は、私どんが大坪とは違ってね、そのご褒美に名前を頂かれた。小さいとから大きくなられた訳なんです。まぁそういう例はいくらでもありますよね。
(途中切れ)
お道のある先生の中にも、昔は教祖様は一人ひとりに、ご神格を与えておられた。信心が進むと、まぁ金子大明神とか金光大権現とかね、金光大神とかというご神格をご信者に与えておられた。ところがそれはお上からそういう事は人間でありながら、神を名乗るというのはいけないと (音声不良)
けれども今日からは白神新一郎と言う先生に、白神と名乗れと言うて、神と言う字を与えておられます。今でも白い神と書いてあります。
(途中切れ)
まぁいうならそれに匹敵するようなことなんです、中村さんに与えられたのは。カタカナのキクヨを、漢字で喜久代と、改めよということであった。今お初穂でもお供えされる時には、喜久代を使っておられます。今度中村さんが、いわゆる本気でいうなら本心から、神様に願われたことを何年間か実行し続けられた。しかも今日がその満願だという日にです、神様は喜久代。そのことは私もお届けしてないからしらん。
(途中切れ)
この信心の喜びというものをなくしたら、あとはクヨクヨが起きてくるですよ、ということであった。御理解であった、これは。喜久代から喜の字を取ってご覧、くよ、クヨクヨになるでしょう。だから、もしあなたの心に不平が起こったり、不足が起こったり、クヨクヨ言わなん様なことが起こったら。もう自分は信心の喜びをなくしておる時だと、いうなら、神様から、その喜びを取り上げられている時だと思うて、精進していかなければいけませんよという事である。
その後に、婦人総代としてのお取り立ても頂かれて、今日に至っておられますが。その喜久代というのが、いよいよ、お徳になるところまで、高めておいでられなければならんことは、これは中村さんが一生かけてのことであろうけれどもです。そのことから、いつも自分の心の中に、心の中に、クヨクヨ言わねばならん様なことがないではない、あるに違いない。けれどもこんな事ではいけんと、信心をまた一段思わせて貰い進めさせて頂く様な事になって来て。
まぁようやく今日まで喜久代の喜の字も取り上げられずに、おかげを頂いておられると言うこと。けれども私が思うのに、まだ喜久代の徳になっていないという様な気がする。それは、どう言う事かというと、はぁ神様からあん時にあげん頂いたから、ここで不平を言うちゃならん、不足を言うちゃならん、クヨクヨしよるとほんなごて、クヨクヨさんになってしまうぞと思うて、自分をそういうふうにしておられるだけのこと。
クヨクヨ言わんで済む私には、なっておられないということ。だから勿論こりゃ大変な問題難しい問題ですけれども。信心さして頂く者はやはりそこに焦点を置かなければならん。夕べはね私お風呂に入らして頂いとった。そしたら誰かが廊下を通って行きながら、私が入っとる、あのお風呂の中の電気をぷつっと、外からまぁぷちっち切って行きよる、誰も入っておらんと思ったらしい。
そしたらね私があのほんなごて、こりゃほんなごてげすからね、本当に有り難かったです。あれがこっちがまだちっと有り難くない時にはですね、こらこらち言うてからおらぶとですよね。入っとるがち言うとこでしょう。ところが外からねぷつっと電気を消された時にですね。私は何とはなしに有り難かった。私のいわば脳裏に、閃くものとでも言うのでしょうかね。私の心に思い浮かべられるこ事でも言うでしょうか。
二十何年前椛目時代に、それこそ便所にも電気が付いてなかったが、風呂場にも電気が付いてなかった。向こうの方から微かに、その電気の小さい光が風呂場の方へ、まぁ通ってくるだけのことであった。垢が、落てとるやら落てとらんやら分からん、もう、手探りで洗わせて頂くという時代があった。その時分の事を私の心の中に、ふっと思い出させて頂いた。有り難い。
とにかくおかげを頂いたもんじゃあるのと、思うてみてまぁ今日は、二十何年前のことをいっちょ、しみじみお風呂ん中で味あわせて頂くぞと思うた。もう限りがないほど有り難いものが湧いてきた。私がそれはこらこらまだ俺が入っとろがと言うて、電気をつけてもらうことも、それはいけない事ではないと思う。けれどもそれはそれだけの事。けれどもそこからね、より有り難いものを頂こうとする姿勢が、いつもあるからなんだ、自分の心ん中に。そして果てしもないほどに、二十何年も前のことの。
不自由な時代であった事を思わせて頂いて。まぁここまでようもおかげ頂いたもんだと思うたら、お風呂の中でそれこそ有り難うして有り難うして、お礼を申さねばおられない心がね、湧いてくる。私は思うのにね、信心とはね、そう言う様な考え方が出来れるおかげを、頂くことのためではなかろうかと、こう思うです。どうしてお前はこげなことをするか、と言うのではなくてね。
神様がこうして有り難いものを下さるんだという頂き方なんです。どうしてお前電気を消すか、と言うのではなくて。こうして本当のことを分からせて下さろうとする。こうしてこのように有り難いものを下さる神様をです、私は分かっていく事だ。私の心が、信心をさせて頂きながら、なるほど一年一年、有り難うなってきよる姿が、そのような時に、そのようなふうに表れてくるわけなんです。
してみると、私は本心をしっかりキャッチしておる。しかもその本心を、そのことを通して、またこのことを通していつも磨く材料にしておるということになるのです。それによって改まりそれによって磨き、ここを教えて下さる。だから私共の周辺にはね、本心の玉を磨く材料は、沢山あるということ。それを以って、改まっていく材料と、そのことを以って、それを磨く材料にする。
それをひとつ違いますと、そのことやら、あのことやらを、腹の立つ材料にしたり、クヨクヨ言わなければならない材料にしたりしてからです、皆は。そこからね、いわば、次元の違った世界が開けてくるんです。
私は昨日、昨日も私夕べ遅うまでお参りがあったんですよ。休もうと思ったら参ってくる。ちょうど十一時過ぎ半頃まで、私ここ奉仕させて頂いた。そしてあの部屋に入らせて頂きましたら文雄先生達が、ちゃんと待っておりますもん。この頃やり損なうたけんで今日はいっちょ、私がこの頃私が腹を揉んで貰うたところが、あぁた私がもう寝たと思うたもんだからじっと、私は腹をこう出したまま帰っとったら風邪を引いた。
そこから私は(笑)。ここに文雄さんがおんなさる。それから今日はいっちょ風邪引かせんごと、もっとらっと揉みますけんち言うとこだったでしょうたい。昨日はまたいつまでもいつまでも、揉みますもんじゃから。もうまぁしかし文雄さんと、揉んで貰いながら、色々、、昨日一日のことをね、まぁ、お話ししたことです。まぁちょいと、文雄さん、もう本当に人間関係の難しさね。
今日はね、もう人間関係の事ばっかりのごたる、深刻なお届けは、その事ばかりじゃった。と言うて、誰彼というわけじゃないけれども。こういうお届けがあった、こういうことがあったと、頂いた話をしよったら、文雄先生がこう言いますもん。『ほんなことですね、信心頂いとってから、これはもう第三者の私が聞いてから、いっちょん問題じゃないことをですね、そげんして問題になると』こう言うんです。
ほんなことね、そうだ。文雄さんが、文雄さんが聞けばね、全然問題じゃないことなんです。勿論、私が聞けば、なおさら問題じゃないことなんです。その問題を、泣きの涙で、こういう、誰がこうしました、誰がこう言いましたと言うて、お願いにくる。しかも、もう深刻なんです。もう本当にね、ちっとばっかり、こりゃどういうことかと言うと、少しばっかり次元の違う世界に居るから、私どもの場合、文雄さんの場合でも、そう見える訳なんです。だから信心というのはね。
そのように有り難いわけなんです。信心とは本心の玉を磨くのぞよ、と一言にして言うておられる。だから、本心の玉を磨いていくことになるとですね、とにかく、甲の人は泣きの涙、乙の人は、そのことを通して、ありがた涙がこぼれとる。こりゃまだ俺は入っとるがち言うてから、腹かかんならん心と、そのことから、有り難いものを限りなく頂いて行きよるのとあるでしょうもん。
だから信心とはね、今のままではいけない。今よりもっとましないわば物の見方考え方、所謂次元の違った考え方。いわばそれを本当の見方であり、考え方であると言う異なり。そこにです有り難いなぁと思う、その心にねおかげがあると仰るのですから。「真に有り難しという心、すぐにみかげのはじめなり」と。真に有り難いというのは、普通で俗にまぁいうなら信心の薄い人、信心のない人がです。
腹を立てるような問題であっても、むしろその事が有り難いなぁと思える心なんです。それが真に有り難い。本当の事が分かったから、本当の喜びが与えられた。お願いをしたらこげなおかげ頂いた。ちょいともう金光様ちは有り難かち。これなら馬鹿でもちょいでも有り難いと思いますよ。ですから信心とは、結局本当なことが分からせて頂くこと。その本当なことが分からせて頂くことのために、本心をまず追求せな。そしてその本心をしっかり捕まえといてその本心を。
様々なあの事この事を通して、それによって磨いていく。それによって改まっていくという、精進を重ねていくうちに、自分の心が一年一年、有り難うなってくるという答えが出てくる。信心をさせて頂いたのが、一年一年有り難うなってくると、何年何十年信心させて頂いておっても、有り難うなっていかない、おかげの御利益の有り難さは分かってきても。信心の有り難さが分からないという様なことではいつまで経っても、それは本当の、いわばお徳になるようなことはないと思う。
おかげの有り難さが解ると同時に、信心の有り難さを追求する。信心の有り難さが身に付いていくおかげを頂いていくこと。それには信心とは愈々本心の玉を磨くものだと、そこに極めたこのみ教えをです、これによって神様は何を分らして下さろうとしておるのであろうか、この事をもって、どこをを磨けと仰っているのであろうかというような、頂き方をさせて頂く、そういう姿勢をもって信心の稽古をしていかんならんと思いますね。
どうぞ。